秦野南地区・語り部運動資料

高尾さんのことなど
上今川町長寿会 櫛田美子

今泉一二〇番地、三杉克篤宅の裏庭の隅に石の祠と木造のお社が祀ってあります。
(1)石造りの祠のこと
 石造りの祠は、屋根も土台も少し傾いて、かどかども丸味を帯びています。丈は五十糎位のものです。きざまれた文字を見たら、寛政一二年(一八〇〇年)と記され、私の知らない頃、亡くなった祖父の 名前でした。
 この石の祠はきざまれてから一九〇年も経っているものかと、なんとも不思議な気が致しました。
(2)高尾さんのこと
 石の祠の隣にある木造りのお社のご本体は、「天狗様」とは子供の頃から聞いております。高尾さんがもととか。
 姉の話によると、昭和二年に小田急線が開通することで、土地が割られ、その時低い方から、現在の場所に移されたようです。(現在、家の裏は小田急線で、一、五m位低い地面です。)その後、 子供の頃、祖母とバケツを下げて掃除に行きました。祖母はお燈明をあげ、さかきの小枝をさしました。
 毎月の一の日と、十五日には、母の炊いた小豆御飯をあげにいくが私の役目でした。供えるものは、時には茹でた蕎麦であり、お餅のこともあったような気もします。
 姉の昔語りを聞くと、そおの時代、現在の下今川町通りは花街色街だったとか、大川橋際の川沿いにも、その様な家が何軒かあったそうです。裏の踏切のすぐそばに、我が家だけに上がってこれる 一人歩けるほどの巾のせまい小路がありました。
そこを上がると、我が家の裏庭で、このお社と祠へも 行けたようです。 朝家の者がお詣りに行くと、時々一銭銅貨が二~三個あげられていたそうです。
しかしお詣りする人の姿は見かけなかったそうです。
 個人の家の小さなお社や祠に人目に立たず、夕暮れ頃からそっとまいる人はおそらく花街の人では なかったかと......... 一寸かなしい気持ちになりました。

なるかならぬか-けずりかけ始末
中町長寿会 綾部 茂

中町には、けずりかけ を作る者は、私と繁治さんの息子さんの二人だけになってしまったが、毎年 作っている。二十日に かずりかけ をおろした時、先を四つ割りにして、そこに十四日のだんごの残 っているのをはさんで、柿、ざくろ、柚子など、実のなる木を「なるかならねえか、ならねば切ってしま うぞ」と云いながらたたくと、実がなると云われていた。
私も柚子の木で試してみたら、何と沢山実が なった。


今川町長寿会 川口 勇

子どもの時、私も けずりかけ で、「なるべえか、なるめえか、ならねえとぶった切るぞ!」と云って 木をたたいた。 (東地区、西田原にて)

大正時代の花街今川町
今川町長寿会 内藤 寛

◎大正時代の今川町には宝仙楼、清水屋、大木屋、三階や、宝来家、養生館、さくらや、藤金屋 等々の料亭があり、芸者、半玉、仲居の女の脂粉ただよう花街で、近在の若者の胸をときめかした あこがれの場であり、又、大山講中の無事下山に一息いれる憩いの場でもあったようだ。
 ◎料亭には、東北地方から、小学校を中途退学して売られてきた女の子も少なくなかったようで、 当局は、義務教育遂行のため再就学を強行し、年齢を問わず退学当時の学年に編入させた。
南小の 児童たちは、桃割れ髪のませた年上の女の子と机を並べて学習をするそんな学校風景もあった。
 ◎商売屋もいりいろあった、金靴屋(馬蹄)、くら屋(馬の鞍)、肥料店、かじ屋、鋸の目立て屋、桶屋、ブリキ屋、足袋屋、一膳めし屋、銭湯、豆腐屋、医院、紺屋(染物)、床屋、雑貨屋、菓子屋、ふるい屋、竹材店等あったが今は全部その姿を消している。思えばこれら商家が農家と関係深い業種の 多かったこともうなずける。  ◎註
 目下聞き取り中なので謝り洩れの修正はこれから。
 そして料亭、商家の所在の略図を作成するつもりですので、お気づきの点がありましたらお知らせ 願いたい

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