秦野南地区・語り部運動資料

弘法の清水・鬼子母神とザクロ
臼井戸長寿会 高橋ふみ

(一)弘法の清水
 秦野駅から五・六分歩いたところに、弘法の清水が湧き出ています。
名水百選に選ばれてから東京 や横浜方面からも、お水を汲みに来られる人が多くなりました。夏は冷たく、冬暖かいおいしい水です。この水は、大正十二年の大地震の時にも濁らず、多くの人の、喉をうるおしたそうです。
 昔は、木の臼を切り抜いて水を出していたので、この部落を、臼井戸と呼ぶようになりました。何度も 改造され、今のような、りっぱな弘法水になりました。このおいしい水を多くの方々に飲んでいただく ために、水神講に入っている人達が、交替で掃除をして守り続けています。
 ○この弘法の清水も、現在は、工業用溶剤の汚染により、これまでのように生水のままでは、飲め なくなってしまいました。
 (二)鬼子母神とザクロ
 昔、かわいい赤ちゃんが生まれると、すぐ鬼子母神が来て食べてしまいました。
悲しんでいる母親を 哀れに思った村人が、赤ちゃんの替わりになるものはないかと思い、ザクロの味が、赤ちゃんの味に 似ているので、鬼子母神の境内にザクロの木を植えました。
それから、赤ちゃんを食べられなくなって 母親は安心しました。その話を聞いてから、どこの鬼子母神の境内にも、ザクロの木を植えることに なったと、ひいおばあさんから聞いた話です。

土橋由良記
三協町長寿会 加藤 公

三協町の、「土橋通り」と呼ばれている道路は中央分離帯のある立派な道路に改修されたが、 地元の人は馴れ親しんだ「土橋」への愛着が強く、土橋由来碑を川畔に建立して土橋という名を残そうとしたものである。
 明治の初め、ここに樹齢数百年の欅の大樹が五本あり、この木の下に小さな流れがありましたが、 大水の度に流れは次第に深くなり、杣道に橋がかけられ人々はその上を渡って、何時しか「土橋」と 呼んで親しんで来ました。そしてこの附近一帯の地域を土橋と呼ぶようになりました。
 その後、度々の大水で大樹は倒れたりしましたので、大正十五年にコンクリート橋となり、 昭和六三年の道路改修に伴い現在の暗渠になったのです。

お化けの話
新田町長寿会 綾部朋吉

細田の大入道おどろいて
こわいこわいと竹之内
お送りしますと送り***
頭を下げて礼を述べ
狐につままれふらふらと
さまよう所は堀之内
むじな騒ぎで目をさます
又も狐に化かされて
狐の嫁入り見たかった
「そば」の夜盗虫箕を持って
振るい落としに行ったらば
狐のみこし現れて
わっしょわっしょと大騒ぎ
昔の人の言うことにゃー
股からそれを見るならば
狐が姿をあらわすと
のぞいて見たが駄目だった
切り口みせても姿みせぬ
にっくい奴は、かまいたち
どんどん引きのカッパめ
姿を見せる人、見せぬ人、
ふえたりへったり狐の火
点けたり消したり赤坂で
光ものが中町へ中町へと
やって来るのは何だろう

上町の横穴と川
今泉西上長寿会 佐藤カネ

上町の竹ヤブの下に横穴があります。入口は縦一米位、巾は七十cm位で、長さは測ることの出来ない程の長さです。 
昔、峯の小泉良太郎氏が水車を廻す水を引くために掘られた横穴だそうです。
入り口には水神様が祀られていて、近くの家では、赤ん坊が生まれるとこの水神様にお参りしました。
 横穴から竹の樋が引かれ、バケツに水が汲めるようになっていました。また、横穴の中に器に入れ た食べ物も色々しまっていました。その下には三ッの隣組の共同の洗い場と洗濯場もありました。また 、下には水車も廻っていました。
 河の水はきれいで冷たく美味しい水でした。また、魚はハヤが沢山いたし、鰻も採れ、夏にはホタル が飛び交いました。 
子供たちはなつにはローソクに火をつけて、横穴の探検もよくしました。
 時代も変わり今の子供たちにそんな話しをしてもわかって呉れず水道も引かれて、その場所に行く 人も無く、昔のにぎやかな人声の川辺を懐かしく思い出すだけの今日この頃です。

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