秦野南地区・語り部運動資料

峯のお地蔵さん
平沢第一長寿会 加藤絹子

峯の会館の近くに江戸時代の作といわれるお地蔵様があります。
蓮の花の台座の上に金色に輝いて、その額に緑色の翡翠の宝石が輝いていましたが、大正の末頃宝石は盗まれて今はありません。
 このお地蔵さまのお陰で、昔西風の強い時西の石打場の方からの大火も峯地区はまぬがれ、又 悪い疫病の流行ったときも峯地区では軽く済んだそうです。
家族の病気平癒や安産の祈願に峯の人 ばかりでなく、遠い所からもお参りに見えました。今ではお年寄りが毎月二十三日か四日にお念仏を あげ、正月と七月には地区の役員さんが灯明を上げてお祀りされます。
 このような有難いお地蔵様を峯地区の人達は大切にして、何時までもお守りして行きたいものと思っています。

お呪いの話
西上町長寿会 佐藤かね

昭和三十年頃、私が嫁の頃はお産は実家に帰ってするのが普通でした。
 私の実家では三人の娘のお産の度に母は「セイの神様」(道祖神)を倒しに行きました。
そしてお産が無事に済むと「セイの神さんのお陰です」と言って、ご飯とお線香を持って「セイの神様」を起こしに 行きました。
母は本当にその呪いを信じていたようです。「セイの神」を倒すと、お産が軽く済むと言われていました。

要清草
中町長寿会 綾部村蔵

明治初期の頃、今の大岳院のプールの辺りは、小さな田んぼが数多くありました。此処の清水の湧 きでている所に、綾部要蔵という人が、横浜で手に入れた、「異人ぜり」の苗を植えましたが、その植物の名がわからないので、要蔵とその息子の清治郎の名前の頭文字を取って「要清草」と名づけて、 回りに柵を作り[取るべからず]の立て札を建てたそうです。この異人ぜりはその後秦野一帯に広がり ました。


上今川町長寿会 大津本治

樽は今では殆ど目にすることは無いが、昔は庶民の最も勝れた水を貯える容器であり、庶民の生活 の中に深く根をおろし、生活用具としてだけでは無く、時には娯楽の用具としても親しまれていた。
 樽や桶を作る人はつらい年季奉公でその技を身につけ、腕を磨いて立派な樽や桶を作った。
 昔は祝言の席は、布で作った鯛を取りつけた漆塗りの赤い樽で飾られた。酒好きの人は、樽の飲み口からコップに注がれるあのトクトクという音は忘れられないし懐かしい音だろう。
 八木節の樽をたたく音も素晴らしい。
 醤油樽には九升樽と四升五合樽とがあった。醤油樽は大八車でお得意さんに届けた。空樽を集めて 廻るのを樽集め、樽拾いとも言った。
俳人一茶はそのつらい仕事振りを     雪の日にあれも人の子樽拾い と詠んでいる。

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