秦野南地区・語り部運動資料

おしやもっつあん
上今川町長寿会 櫛田市郎

私の子供の頃、諏訪町の杉の開戸に大きなカヤの木がありました。その根本に小さな社があり「おしやもっつあん」と呼んでいた。
その当時一日、十五日、二十八日に赤いマンマを供えて拝みに行った 人が相当あったという。
そのカヤの木は落雷で半分焼けて、社も今は無いが、「おしやもっつあん」にはその名のとおりご飯をよそる「しゃもじ」を祀ってあったようである。
中にはお茶をあげた人もいたらしく「おちゃもっつあん」という人もいる。古老の話によるとおしゃもじにお経を書いて、玄関の軒下に三、四本飾った家もあったという。食事と健康を祈ってのことだろうか。

馬場の由来
上今川町長寿会 鈴木 清

大正の始め頃、今川町地区の水無川沿いに、馬場が出来ました。
石ころの川原でしたので、土を 盛って堤防を作り馬場を作ったそうです。
今の人道橋辺りから川筋に沿って千米位、巾は百米くらいでしょうか。昔は近在の農家では、農耕馬を飼っていたので、休日や祭日には競馬を楽しんだそうです。 今でも今川町会館のそばに馬を祀った馬頭観音様が残っていて、毎年地元の有志が供養して居ります。
今でもその辺りを年寄りたちは「馬場」と呼んでいます。

小田急今昔
三協長寿会 加藤 公

今から四十数年前の話しですが今思へば当時はのんびりしていたものだった。
小田急で帰るとき 「その信号の前で停めて」などと頼んで、家の近くで電車から下りるなんて言うこともあった。
 今はそんなことは到底考えられないし、若しそんなことをしたら一騒動だろうが、当時終戦の混乱期 ということもあったと思うが、なんとものんびりした田舎の風景である。
 当時の小田急線は、二両連結で手動扉、静かな田園に特有の音を響かせてノンビリと走っていた。
現在は十両連結で分秒を争う正確さと、スピードで走り抜けて行く。
世の中も同様、なんとも忙しく息 せき切って走り続けているような風潮の日常になってしまった。
もう少し一息入れてゆっくりと言う訳 にはいかないものか。今の子供たちが気の毒に思えてなtらない昨今である。

ソ連抑留時の食について
西上町長寿会 小磯晴治

ソ連軍の捕虜となり、シベリヤに抑留されていた時、収容されて約一ヶ月は仕事も無く、従って食事 も生命を維持することも困難な程度のもので、一日二食、朝と晩に馬の飼料の「コーリャン」を粥にし 食器の空き缶三分の一程度を支給される。
こんな生活が半月から一ヶ月も続くと栄養失調者が続出し 一ヶ月足らずで私の隊でも十人以上の死者が出た。
戦友の話だが、仕事を与えられ夜工場に往復する道で、落ちていたジャガイモを拾ってそっと雑嚢にしのばせて持ち帰り、内緒で食べようと取り出したら、凍ったジャガイモはなんと馬糞とわかり、がっかりしたなんて言うに笑えない話しもありました。
 仕事が終わり収容所に帰っての話しといえば、食べ物の話しばかりで「真っ白い米を食べたい」とか 「お汁粉」「よもぎ団子」とか母の作ってくれた懐かしい食べ物を想い出しては語り合い、一日も早く帰国できる事を願いながら生活したものでした。
現在のような飽食の時代が来るなど想像も出来ませんでした。

語り部の目次へ