秦野南地区・語り部運動資料

神奈川県西部地震
中町長寿会 綾部良三

神奈川県西部は、地震の多い所である。昔から震度六以上の地震を挙げてみると次の様だ。
一. 長元五年十二月十六日。平成六年より九百六十年前。富士山の噴火に依る。
二. 寛永十一年一月二十一日。午前四時。 小田原藩領内怪我人七百人。死者七九人。農家二二〇戸。
これより七十年後。
三. 元禄十六年十一月二十三日。午後二時
 小田原藩内死者、武士一三七人。町人六五一人。旅人四四人。領地内一四七六人。計二、三〇八人。牛馬一七一頭、潰家九五四戸。天守閣崩れ、大津波あり。
これより七九年後
四, 天明二年七月一四日。夜九時(浅間山噴火天明二年)
これより七一年後
五. 安政元年(嘉永六年)二月三日。午前三時。小田原藩領内潰家二二〇戸。怪我人七〇〇人。
死者七九人。
これより七〇年後
六. 大正十二年九月一日午前十一時五十八分。
関東大震災。
関東大震災による南秦野地区被害状況。死者二四名。内小学生二名、怪我人三〇人。
家屋全壊二三〇戸、半壊四〇〇戸。
中町被害 全壊一〇戸、半壊一五戸、死者三人。
天皇陛下より震災被害地全帯に御下賜金金一千万円あり、 慎重協議の結果、 死者、行方不明者十六円、全焼十二円、全壊八円。半壊、怪我人四円とし、大正十二年十二月二十七日役場に於いて伝達、拝受するとある。
七. 昭和五十八年八月八日午後十二時五十九分。山北地方強震。震度五。山北駅付近軒並み 屋根瓦落下。 今泉では瓦の落ちた家二、三戸あり。西秦野峠地区では山崩れあり。北、西地区では 墓石倒壊あり。
 関東大震災から今年は丁度七十二年目に当たる。何時地震が起きても不思議ではない。
折しも 兵庫県南部沖地震も起きて、その被害は想像を絶して甚大である。地震の恐ろしさの認識と地震への 対策は心懸けなければならない。

秦野駅誘致運動
臼井戸長寿会 高橋ふみ

小田急の用地買収は大正十三年頃から始まった。
 直接東京に通ずる鉄道となって秦野でも、その駅の誘致こそ地域発展は間違いなし誰しも思ふこと、 才ヶ分方面、本町四角方面。南地区と本町地区との町と村をあげての争奪戦が始まった。土地の無償 提供を申し出る者あり。値上がりを狙って黙する者あり。町村長始め町村会議員の陳情団は竹槍で 警護され激しい地域紛争であった。
このような陳情合戦も小田急側の一声で現在地に決定したのである。
 小田急は、昭和二年四月一日に開通し、秦野も漸く変貌し始めた。現在乗り降りする人達はこのよう な昔の知るや知らずや。

氏神様の裏通り
西大竹長寿会 宮村一郎

大竹の氏神様の裏通りは、昔の大竹の農家の人達が作った道で、今は東海道の二宮と秦野市を結ぶ本通りです。
 西側は小さな森や林で、その間に女竹が生い茂り、身をすり合うように深く入り込んだ小枝で、北側は小さな原でした。
雨の降る度に坂道の中程が削り取られて凹凸になります。また、日差しが悪くて少し雨が振り続くと 坂の谷間に苔が生え、足を滑らせては転びました。
しかし、この坂は秦野方面への近道なので大竹の 人は、荷物を背負って通り抜けて買い物に行きました。
 又、この谷間坂が秋になると木の葉がいっぱい積もり、その中を「コジュッケイ」という鳥が餌を食べに来て、落ち葉の中に滑るようにしてカサカサと音立てて人の前を進みます。
左右の山も紅葉して秋 が来た事を感じさせられました。
 又、坂の途中まで登ると、大きな石の台座の上に据えられた天神様のいしの塔が、道行く人を 見守るように立っていて、心がいやされ、懐かしい思い出深い坂道でした。

堂の前
西大竹長寿会 宮村一郎

西大竹の南の方にこんもりした、土盛りしたような小さな丘があります。
ここは堂の前と呼ばれていて 、悲しい話しの伝わる丘です。
 昔戦に破れた何人かの武士がこの地まで落ちのびて来ましたが、これ以上逃げることも出来なくなって、この土地に落ちつくことに決め、頂上の小高い所を平らにして小さな社を建て、身につけていた 稲荷大明神のお札を祀って護り神とし、自分達はその回りに小さな小屋を建てて住みました。
 しかし、戦いに敗れ、慣れない暮らしに疲れ、歳とった武士たちは次々に亡くなりました。そして一人 亡くなる度に、その武士が身につけていた刀や槍、蓑笠なども一緒に埋めたということです。
 この小さな丘を見るたびに、無縁仏となってこの丘に眠っている武士たちの、無念な思ひに身の引き 締まる思ひがします。

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