秦野南地区・語り部運動資料

秦野駅南部の変貌(尾尻上方)
上方長寿会 高橋長生

尾尻の上方地区は、秦野市の中でも、明治以来激しい地域の一つに入る。
秦野駅南部(尾尻上方町は昭和二年小田急線開通、その後昭和五十六年から行われた市の区画整理により、土地の基盤整備が行われた。
駅の南口が開設され、自由通路で北口広場に連絡し、南口広場、歩道に彫刻を六基設置し、水とみどりのある駅前街路を核に、付近一帯立派な市街と変貌した。
 小田急開通(昭和二年)以前は今泉を通り、大川橋へ、東は臼井戸、新田を通り水無川畔、二宮街道 に通じ、小道が二、三ヶ所、今の駅から東側の竹の下の桑畑、竹やぶを通り水無川の堤防に出るだけで あった。
 開通当時は上方は十軒程度、明星地区に数軒住居があった。
 その後駅裏で便良く、住居が徐々に建てられ、百戸以上になり、区画整理によっての移転戸数は物置 、車庫等を含めて二百五十棟近くになっていた。
 昭和四十九年頃から公共による区画整理の話しが出、五十六年事業計画され、実施されることに なった。
昭和六十年三月都市計画道路(秦野駅連絡線)の小田急線下を通る尾尻地下道が完成し、 大型車両がこの地域に入るようになり、埋立造成工事が進められ、事業決定から二十年余を経て、 種々の難問を克服して、完成の運びとなり、整備された区画道路、都市計画道路で、どの住居も広い 道路に面し、すばらしい市街地に生まれ変わった。

今川町の学校みち
今川町長寿会 尾登錠太郎

私が南小学校に入学した昭和五年頃は、小学校の通学路は、河原淵の踏切り番のいる小田急線踏切 を渡るか、線路を横断して小田急の崖を駈け上り、オシャモッァンの榧の木の前を、畠の畦道に沿って 今泉神社の前まで出るかして、小学校へ通いました。
 それを見て、今川町の親達は、何とか学童が安全に通学出来る道が欲しいと、今川町から神社まで 道路を作ってもらいたいとの要望をしました。
 道路用地は、主として諏訪町の人々の農地で、地区からの村会議員は飯田喜十郎氏であったので、 今川町の有志二十名以上が、何とか、村として学校道の実現方をまとめてもらいたいとお願いに行きま した。 
飯田議員は役場へ提案する前に、地区の農家の了解が必要な為、何日も相談を重ね、賛否両論 中々纏めるのが大変でしたが、昭和七年に学校道工事が決定されました。
その頃は道を作る人たちの日当は、一日八十銭だったそうです。
 工事が始まると父親に、「お前達の校道だから、手伝いに行け」と言われ、二人一組になってモッコ を引いた懐かしい思い出もあります。
 此の学校道も、その後何回かの拡幅工事で広くなり、小田急踏切も整備され、バスまで通るようになり ました。

今川町の初代会館
今川町長寿会 尾登錠太郎

今川町には大正時代から、町内の集会場が無かったので、昭和三年に競馬場東側の、当時の村有 空地に「集会場兼観音堂」を建設しました。
 此の建物の間口は四・五間で約十五坪位で、建設費は三四二円四三銭也(内借入金は二四五円) でした。 
参考までに当時の組数は十一組で、年間町内掛金合計額は約四五〇円でした。
 大東亜戦争の敗戦後昭和三十九年に、馬頭観世音堂を現在の位置に建立し、古くなった手ぜまな 「集会所兼観音堂」は解体され、現在、町内の皆さんが毎日いろいろの集会に利用されている中今会館 に立替えられました。

関東大震災の思い出
平沢第一長寿会 山口ツヤ

関東大震災の時私は七才で、その日は姉と二人でお人形で遊んでいましたが、突然ズドンズドンと 大きな音がして何が何だか分からないまま起き上がることも出来ず、ころころところがって、気がついたと きには外にいました。
 姉と二人で抱き合って途方にくれているだけで、怖いと思う他は何も考えることも出来ませんでした。
その時母の「どこにいるの」と私たちを呼ぶ声が聞こえました。その時は何ともいえない嬉しさでした。
 家は傾き、庭はうねり、何本も地割れがして怖くて歩くことも出来ませんでした。
 町は火事になり空まで真っ赤になり、黒い煙と火の粉が飛んで来ました。近所の人達も「山の方に 逃げた方がいいよ」と言って逃げて行かれた人もありました。
私の家では蔵の前に戸板を敷いて皆で 固まって「マンゼクロマンゼクロ」と神様に祈っていました。
 夜になると空は益々赤くなり大道、片町の方まで燃え広がりましたが、乳牛の古峯神社の所で消えま した。 
古峯神社で恐ろしい火災が止まったということで、今でも古峯神社は火除けの神様として祀られています。
関東大震災は一生忘れられない思い出です。 (当時下曾屋に居住)

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