秦野南地区・語り部運動資料

私の嫁入り
宮町老人クラブ 草山アヤ子

私は昭和二十三年に、渋沢田代から、平沢宮町の草山家に嫁入りしました。
 結婚式の三日前に、高島田に結い上げました。そして、前日には今泉の仲人(伯母家)方に泊まり、 早朝二時に、提灯で足元をてらしながら、みよし髪結いさんに、髪をなでつけに行き、でき上がったのは 五時でした。 
七時には記念写真をとりに上宿の金谷写真館に行きました。大川橋は霜で真っ白でした。 花婿は一足早く、写真屋で小さな手あぶ火鉢に手をあてて待っていました。
 伯母様の細かい心くばりで、「これからは自動車に乗ることもなかろう」と渋沢田代まで八千代タクシー に乗って行きました。
 当時は、花嫁さんといっても、江戸褄に畳付きの駒下駄でした。男は羽織袴、中折帽かモーニング、 山高帽にステッキ。女は江戸褄でした。
 タクシーは赤坂五万騎道路、平沢二号線から仲人さんの家へそして草山家へ。草山家では松明、傘で お迎えして下さいました。
 原の組十二家へかねおや草山ふみ様と挨拶に廻り、くぐり戸をくぐって挨拶をしました。
 青年団の弓張提灯を縁柱につけての祝言でした。
 この祝言に、草山くに、お古嫁様は、六十才で「いもちゅう」二斗五升を作って用意されました。

念仏講のオオゲ
中町長寿会 監物四郎

私の子供の頃(昭和の初期)、祖父が毎年三月頃になると、今日はオオゲだと言って、立派な皮の袋 (中味はご詠歌の本と鐘、漆の朱塗りの台座と鐘を打つ棒)を提げて、嬉々としてステッキを持ち、畳付き の下駄を履いて出掛けた。余程嬉しいところへ行くのだろうと思っていた。
 念仏講とは、各部落毎に年寄りが集い、念仏を唱え乍らチャンチャンと鐘をたたき、佛を供養する人達 の講中である。その各講中(本町、南、中井の一部)が、ぐるぐる廻りの当番制で、当番講中の部落の 各所に七色の幟旗をたくさん立て、各講中の人達が三三五五に寺や役員宅へ集まり、大念仏大会が 始まるのである。
 当番の講中は、各家々から米を集めたり、寄付金を戴いたりして、村中こぞってその日のために用意 し、おいでになる皆様を接待するのである。今泉や尾尻は大きなお寺があってそこで行うが、上大槻や 大竹は集合場所がないので、講中の役員の家々で行うので、村中お祭り騒ぎで大変であった。
私の家 でも近所から手伝いの婦人が大勢来て、お勝手の手伝いをしてもらい、若い日の母が、てんてこ舞して いた姿を想い出す。
 会場では呑んで食べて、ご詠歌が上手だ下手だ、やれ声が良いの悪いのと色々言い乍ら、チャン チャンと鐘をたたく賑々しい風景が想い出される。然しご詠歌は、歌詞が殆ど哀歌であるので馬鹿騒ぎ にはならない。とても楽しそうであった。
 これが念仏講のオオゲ(枉駕)である。
 他の地区の人々との意志疎通の場を造り、お互いに知り合い、通じ合って、見聞を広め、ボケを防ぎ、 余生への楽しい生活の一端であり、文化交流の場であったのであろうと思う。

尾尻の水車
上方町長寿会 高橋長生

千村を源とし、渋沢、平沢、今泉、尾尻と流れる室川は水量も多く、尾尻地内に四軒の水車があった。
 今泉稲荷神社付近の水車屋や工場は、芹沢の豊富な湧水を利用し、尾尻の水車屋は室川に堰を 設けて、用水路を造って導水し、水車に利用し製穀(精米、精麦、製粉)を行った。
 ・石井水車は尾尻上方にあり、現在は区画整理により埋め立てられている。「いまいずみ保育園」の 北側の川端にあって、昭和三十年代半ばまで営業していた。
 なお水車に利用した水は、稲作時期は樋で室川を越して、対岸の田んぼに流した。
 ・倉田(高橋)水車は尾崎橋近くにあり、昭和十年代まで営業していた。
 ・櫛田水車は鶴巻橋近くにあり、明治年代終り頃創業され刻み煙草の製造をしていたが、煙草が専売  制度になったので、製穀の水車になって、昭和四十年近くまで営業していた。
 ・山本、櫛田水車は、明治年代後半の創業であるが、倉田、石井水車は大正時代創業と思われる。
 当時、仕事を依頼されると「こあげ」(荷揚、穀揚)ちいい、牛馬車、荷車による運搬がなされたという。
     (高橋勝治・山本テル・高橋久夫氏談)

節目のお伊勢参り
今川町長寿会 尾登錠太郎

今年は、伊勢皇大神宮御鎮座二千年の記念の年になります。
 先日祖父の手文庫を整理していたら 「伊勢皇大神宮御鎮座
  千九百年奉祝祭
管線日本両鉄道乗車割引証 
 「復」    神宮教院(印)
 という証書が出て来ました。
 明治三十年三月一日より、同年五月三十一日迄の使用期限で、往復各弐割引と乗車賃金サービスの、 鉄道局承認のものでした。
 祖父は日清戦争に出征していたので、台湾攻略より凱旋した記念に、お伊勢参りしたものと思われます。
孫が今回お参りに行くのも、意義ある事と思います。

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