秦野南地区・語り部運動資料
私の嫁入り
宮町老人クラブ 草山アヤ子
私は昭和二十三年に、渋沢田代から、平沢宮町の草山家に嫁入りしました。
結婚式の三日前に、高島田に結い上げました。そして、前日には今泉の仲人(伯母家)方に泊まり、
早朝二時に、提灯で足元をてらしながら、みよし髪結いさんに、髪をなでつけに行き、でき上がったのは
五時でした。
七時には記念写真をとりに上宿の金谷写真館に行きました。大川橋は霜で真っ白でした。
花婿は一足早く、写真屋で小さな手あぶ火鉢に手をあてて待っていました。
伯母様の細かい心くばりで、「これからは自動車に乗ることもなかろう」と渋沢田代まで八千代タクシー
に乗って行きました。
当時は、花嫁さんといっても、江戸褄に畳付きの駒下駄でした。男は羽織袴、中折帽かモーニング、
山高帽にステッキ。女は江戸褄でした。
タクシーは赤坂五万騎道路、平沢二号線から仲人さんの家へそして草山家へ。草山家では松明、傘で
お迎えして下さいました。
原の組十二家へかねおや草山ふみ様と挨拶に廻り、くぐり戸をくぐって挨拶をしました。
青年団の弓張提灯を縁柱につけての祝言でした。
この祝言に、草山くに、お古嫁様は、六十才で「いもちゅう」二斗五升を作って用意されました。
尾尻の水車
上方町長寿会 高橋長生
千村を源とし、渋沢、平沢、今泉、尾尻と流れる室川は水量も多く、尾尻地内に四軒の水車があった。
今泉稲荷神社付近の水車屋や工場は、芹沢の豊富な湧水を利用し、尾尻の水車屋は室川に堰を
設けて、用水路を造って導水し、水車に利用し製穀(精米、精麦、製粉)を行った。
・石井水車は尾尻上方にあり、現在は区画整理により埋め立てられている。「いまいずみ保育園」の
北側の川端にあって、昭和三十年代半ばまで営業していた。
なお水車に利用した水は、稲作時期は樋で室川を越して、対岸の田んぼに流した。
・倉田(高橋)水車は尾崎橋近くにあり、昭和十年代まで営業していた。
・櫛田水車は鶴巻橋近くにあり、明治年代終り頃創業され刻み煙草の製造をしていたが、煙草が専売
制度になったので、製穀の水車になって、昭和四十年近くまで営業していた。
・山本、櫛田水車は、明治年代後半の創業であるが、倉田、石井水車は大正時代創業と思われる。
当時、仕事を依頼されると「こあげ」(荷揚、穀揚)ちいい、牛馬車、荷車による運搬がなされたという。
(高橋勝治・山本テル・高橋久夫氏談)