秦野南地区・語り部運動資料
縁切り橋・天社神
西大竹老人クラブ 高橋秀平
(1) 縁切り橋
西大竹字前田は、其の昔から雨が降れば、田植えが行われ干ばつの折りには、不耕作という
自然の田がありました。上智大学の残土により埋立が行なわれ、其の後組合施行により、区画整理
を、実施して、現在では中央に、前田公園児童館が出来、その周辺は立派な住宅地になっていま
す。
その北側の排水路に昔から、石の橋がありました。今現在では取りはずし、舗装されておりま
すが、部落の人はその橋を、縁切り橋とか、矢越の橋とか云い伝えられています。
それは、其の昔
花嫁が土沢に行く途中、花かごの台上で突然、消えてしまったとか、これは、当時の人は、妖怪の
仕業であると信じて弓を射った所、その矢は石の橋の下を、越えて、見つかったとか伝説が、あります。 平成のこんにちでも、西大竹の、人達は、花嫁の挨拶廻りには、石の橋のあった道路は、通り
ません。
(2)天社神
西大竹は、昔三つの集落を、西大竹と云った。開戸庭、中庭、北庭それぞれ三つの天社神が、祭
られている。所在は、開戸庭は、二の宮街道の南ケ丘入口の手前、中庭は、嶽神社の裏、北庭は、
神社の裏旧道にそれぞれ祭られている。旧道の天社神は、道路拡張によってグリンタウン下の市有地
に移転し、今も春秋の社日の前日、講中によってそれぞれお祝いし五穀豊穣祈願を致しております。
小さな祠の想い出
中町長寿会 小泉初男
私の家には以前、代々受継がれて来た古臭い、小さな小さな祠がありました。高さ七十センチ位、
間口四十センチ位、奥行は五十センチ位の木製ですが、観音開きの扉のある祠でありました。
観音開きの扉を開くと中は、二つの室に区分されていて、一方に疱瘡神が今一方には、七面大明神
が祭ってありました。
祭った謂われについて、父の話ですが、昔南秦野村地一帯に疱瘡が蔓延し、
死者も多数出た年があり、先祖が疱瘡に罹らない様に、又罹っても軽く済む様にとの祈願して祀った
と、又、七面大明神については、代々我家の護り神として祀ったとの事でありました
毎年祭典を催しておりましたが其の祭日は忘却しました。 祭日には、赤い幟を祠の前に何本も立て
て、母は朝早くより赤飯を炊きおにぎり作り、祖父と父は、菓子を紙袋に詰める作業に追われて
いました。
私達も時にはお手伝いした事もありました。やがて祭典に集まって来た子供一人一人に祖父と
父母がおにぎり、菓子袋を手渡していた。多い時には六十人以上も集まって来た事もあります。私達
兄妹も其の列に入って祖父母又は父母より貰うのが楽しく又嬉しかった事を想い出します。
祠の中に何があるのかと子供心の好奇心から扉を開いて中を見た事がありました。
二つに分かれている室の一方には小さな桟俵(米俵の両側のふた)に赤い紙のしめが立っていて
其の奥に古びた、疱瘡神のお札が入っていた、今一方には白羽重の小さな四角の布団の上に蛇の抜殻
がのっていた事を憶えております。
この小さな祠は大正三年に父が平塚町の養生館通りに米穀商の
店を開業した時に南秦野町今泉の元屋敷地より移されて来たものです。その後、大正十一年七月に
平塚劇場前に店を新築開店の際祠も新しく造り代えられて、庭の一割に祭られていましたが、昭和
十九年大東亜戦争が烈しくなり、平塚市も空襲の恐れが生じて来ましたので、父母は秦野市今泉の
元屋敷の一割に疎開、祠も今泉に戻って来ました。
父の死後、祠の管理は弟がしていた様ですが、祭典は其の後、催されておりませんでした。
昭和五十年十月、私は平塚市より現住所に移って来ましたので、弟が、「祠も古くなり、腐れ箇所も
出て来たので、石で造り代えて本家に戻そうか」と、言っていたが、その弟も今は故人となってしまって
、祠の存在も今はさだかではありません。