秦野南地区・語り部運動資料
西大竹の泣き地蔵
西大竹老人クラブ 桐生義雄
西大竹に夜泣きに霊験あらたかな地蔵さんがある。
舟形後光に浮彫された、増丈約四十糎、碑文共約五十六糎、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ座像
で後光に干時元禄十一年戌寅、高橋□□と刻まれている。
昔、子供が激しく泣いていたが、野作業が多忙の為、帰りしな子供を抱き上げた時には、すでに
死んで居り、その子の供養のため建立したものと伝えられており、特に子供の夜泣きに大いに霊験あり
、遠く京浜地方の方も願かけに来るそうです。
願をかける時は、茶飲茶碗に梅干を入れてお供えし、
また、願がかない夜泣きがなおった時には、そのお礼として幟をたてるものと伝えられている。
芹沢の湧水群界隈のこと
今泉西上町老人クラブ 綾部顕治
いまから凡そ100年前の明治時代中期頃から、今泉村に芹沢と云う部落があり湧水群が三ヶ所
あった。
現在は秦野市水道になり増口の貯水層に送られ、市民の利用する水道とされて居りますが、
電気の無かった時代、水力を利用して水車屋が四戸とメルトン工場、製紙場があった。その水の
お陰で近在から男も女も働きに通ふ様になり、賑やかな工場地帯に発展していた。
白笹神社の大鳥居の手前に玉川の寿司屋があった。その裏の所から、大量の湧水が出て川になり、
室川にそそいでおり、澄んだ透明の水にてハヤが群をなして泳いでいて、子供も大人も釣りによく
来ていたという。
又、大鳥居のそばで宇土野東助夫婦が茶屋を出して居た。おかみさんはお八重さんとい言って、
お世辞が良く客扱いが上手でお茶を出したり、酒や種々のおちまみを出してとても繁盛したという。
次の湧水群は武夫さん所(小泉芳雄宅)の穀類を売って居た裏の竹やぶの所と、おけやをやって
居られた文ちゃんの前の橋のしたから湧水が出ていた。その手前の洗濯屋の所に木挽きの家があった
、昔は皆、板鋸でひておられたとの事です。
その湧水から流れて五十間程の所に水車があり、土地で取れたタバコの葉を買い集めて、刻み工場
では、女工や男工が五十人程、働きに来ておった。古谷さんと言ふ人が工場主との事。そのそばに
加藤魚屋があった。
そして酒屋の松ちゃん(小泉勉さんの祖父)の家でも昔は酒造家で工員を大勢使用していた。
その
隣に饅頭や菓子を作る店があって、娘が二人いたそうです。器量良しで若者がよくよって繁盛したそう
です。その道の向こうにも菓子屋があって売れたそうです。そこの仲ちゃん云ふおじいさんはお灸を
すえて、リュウマチ、神経痛を直したそうです。リヤカーで来て、帰りには歩いて帰れる様になり、皆
喜んで、すえて貰ったということです。
もう一ヶ所は小泉安さんの所の竹やぶの下からの湧水群である。近所の人は洗い物や洗濯物を
すすぐのに使用していたという。そこから五十間程、流れて小泉亀縣さんが作られたタバコの刻み
工場があって、使用人が大勢働いていたそうです。後に小清水安さんが米麦粉をつくる水車屋に
変わりました。 その下が観音様の前でしたので、堂面と云ふ屋号で原熊五郎さんが水車屋をやって
いられた。 その水をトンネルを掘って三十間位で、出た所に清水藤左右衛門さんが作った、メルトン工場があった。女工100人と男工も働き、糸取りと織物を作っていたそうな。その奥の所に製紙場があって
神を造っていた。後で徳さんと云ふ人が住んでおられた。
そのメルトン工場の後は瓜本四郎さんの製油工場になり、向かいあってトテントテンと油をしぼって
売っておられた。後に飴工場となる。その下に観音下の水車屋があって水は室川へ合流した。この
湧水群の為に工場が発展し、町内や附近の人々が働きに大勢来た。これ一重に湧水が大量に出て
電力の無い昔では水力と人の力で、地域が栄えた為と思ふ。以上をもって水の尊さを知って貰いたい
、昔を忍ぶ何時までも。