秦野南地区・語り部運動資料


今泉八坂神社の御神木
諏訪町長寿会 飯田右八

今泉の中央の尾尻よりに、もとは天王さんといい、現在は八坂神社という社がある、。
 この神社の御神木は、市の文化財として指定されている「椋の木」で樹齢は三百年以上と推定される。
 この御神木は、言い伝えによると、兄弟御神木が他に二本あるそうで、一本は諏訪町の隈澤宗治方 の屋敷内に権現様という小さな石堂があるが、その御神木で、現存しているが、何回もの台風や落雷 やらで、木は半分位になってしまった。他の一本は上町の八幡神社にあったとのことであるが、何年か前の台風で折れ、無くなってしまった。
 八坂神社の御神木については、根元の周囲は五、六米位で、やはり落雷等により、子供が出入りで きるような穴があいて居ります。
 年に一度の九月の祭典時には役員みんなで、大シメ縄を作り御神木上部に取りつけ、祭典行事を
行って居ります。私達が青年の頃はいろいろと余興等も行ったこともあり、現在は祭りバヤシ太鼓程度
のことを行事として行って居ります。
 言い伝えによると、昔何百年前かわからないが、祭典時、御御輿を尾尻明星をかついで廻っていたら、突然、火の雨が降って来たので、其の場に穴を掘って御神輿をいけてしまったということであり、
その火の雨とは落雷のことではないかと思われますが、何れにしろ何か起きたことにより、現在は、
尾尻明星は講中から外れ、今泉、中町、諏訪町、下今川町の講中で行っており、天王さまが八坂神社
と改名された理由もよく解らないが、そうした点も考えられます。現在も小林秀雄氏を天王開戸と呼ん
でいます。

お諏訪さんと尾尻
上今川町長寿会 櫛田市郎

昔から今泉神社のことをおすわさんと言っている。
 古老からきいた話ではむかし諏訪湖に古くから住む大蛇が、空を飛んで来て、(何の為に飛んできた のかわからないが、一説には、きれいなうまい水を飲みに来たとも!)現在の今泉神社の所が頭、尾が尾尻の地点に落ちついたので、その様な地名になったという。

電灯がつくのは東から?
今川町長寿会 小宮薫蔵

秦野にも電灯がともることになった大正初期の話である。  ランプから電灯に、これは全く画期的な変革であって、当時子供であった私達にとっても、大きな 関心事であったことはいうまでもない。それは、電灯が東からつくのか、西からかが問題で、議論の中心 となっていた。 結論として、小原の高台(昔の一本松)に登って、たしかめることになった。  頃あいををみて仲間と一緒に、坂下から急坂(今は廃道)をあえぎあえぎよじ登った。  高台に立って眼下にひろがる盆地の集落を眺めながら点灯の時を待った。  やがて陽は西に傾き、夕やみがあたりをつつんでくる。点灯の時は刻々とせまってくる。もう話し声は ない。みんな固唾をのんで眼下の集落に目をこらしていた。  そして遂にその時はきた。  一瞬にして一斉に灯りがともったのだ。東からでも西からでもなかった。 みんな唖然、みんな びっくり、そしてそれぞれが納得したような、しないような変な気持ちで帰路についた。  今は昔のはなしである。           (記録 内藤 寛)

尾尻部落の稲荷講
上方町長寿会 高橋義雄

尾尻部落の稲荷講は、天保七年二月吉日に始まり、一方は十九戸、もう一方は十八戸の二つの講 があったが、昭和の後半農家が減るとともに講中も減り、十八戸の講の方は、五十年の初めに解散し てしまい、十九戸あった私の講も現在八戸になってしまいましたが、何とか、昔の仕来りを守りながら
続けて居ります。
 仕来りについて申し上げますと、先ず最初に講中の者が一堂に集まり、来年の当番(宿)と、下番を 籤引きで決め、当番に当たったものは、来年の二月初午の前夜、宿を引受けます。下番の者は、当番 の者が初午並びに二の午の両方、宿が出来ない場合に当番を引き受けることになります。当番の家 では、初午の前、一日か二日前に、「稲荷講の宿をやります」と講中に告げて歩く。
 当日が来ると、お稲荷様のお社の前に、申し送りできております。幟旗(現在は白笹稲荷大明神)を 立て、講の準備をを行います。
 夜になると、講員の夕食の準備をし、稲荷大明神の掛軸を掛け、その前に講中に出す夕食と同じ膳を 飾る。 夕食は、酒、あずき飯、ケンチン汁、にしめ、刺身、きんぴら、煮豆、酢物、天ぷらで酒は ご飯茶碗で飲むことになって居ります。
 夕食が終わると、今年の掛金を支払うことになります。昔は、米一升の価で決めていた様ですが、 現在そのようなわけにはまいりません。最後に来年の当番宿と下番を決める籤引きをやり、決まりま したら、掛金と籤とを神前に供え、稲荷講の行事が終わります。
 今年の農作物が豊作であります様にと、講中の安全をお祈りして解散致します。

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