秦野南地区・語り部運動資料
梅原牧場の大凧あげと秦野太鼓のこと
上方町長寿会 関本宗吉
梅原牧場は尾尻(大秦町一、小田急線秦野駅前の神奈中ビル付近)にあり焼く五反歩(四九・五㎡)
の広さであった。
牧場内には幹が直径2mもあるような大欅があった。
当時の支配人の関本源蔵氏は、明治の初期に平塚市入野から分家して、牧場内に一戸を構えて
居住していた。 同牧場では毎年、お節句に青年衆が集まり、関本氏所有の大凧あげが催された。
凧あげが終わると、牧場内の大欅の下に集まり、半玉を含めた芸者を迎えて大宴会が催された。
その宴会には太鼓を打ち鳴らして、賑やかに宵をすごした。
太鼓叩きについては、関本源蔵氏が入野に居住当時から覚えていたので、関本氏は時々、青年衆
を牧場の広場に集めて太鼓叩きを教え込んでいた。
この太鼓叩きが各地域のい祭りに祭囃しとして広がったもので、これが秦野太鼓の元祖である。
関本氏は太鼓に合わせて、笛も覚えていたので、笛吹も教え込み、最初は太鼓に合わせて、笛を
吹いていたが、後継者が絶えてなくなったということである。
消え去った的山
大竹老人クラブ 高橋利介西
現在、南ヶ丘団地の建ち並んでいるあたりにあった的山は、広大な山続きで、六十町歩外、立野等
合計七十五町歩もあり、その昔、狩人の的場に使用した伝説があり、明治時代には鳥獣も多数、生息
していて、狩人も多く出入りしていた模様です。
或る時、西大竹の狩人広吉様は、猪と見違えて、うったところ宗五郎様をうってしまい、幸い軽傷で
済んだということもあったそうです
昭和初期にも、鳥獣も多数生息して居り、私は昭和二年に独逸ダイアナ製大型強力の空気銃を
買って、この的山へ出かけ、半年程で様々山鳩、子兎迄うっt事も忘れられない。
昭和四十七年より、七十五町歩の内二十四町歩は公園団地となり、的山はすっかり衣替えして姿を
消してしまった。