秦野南地区・語り部運動資料

梅原牧場の大凧あげと秦野太鼓のこと
上方町長寿会 関本宗吉

梅原牧場は尾尻(大秦町一、小田急線秦野駅前の神奈中ビル付近)にあり焼く五反歩(四九・五㎡) の広さであった。
 牧場内には幹が直径2mもあるような大欅があった。
 当時の支配人の関本源蔵氏は、明治の初期に平塚市入野から分家して、牧場内に一戸を構えて 居住していた。 同牧場では毎年、お節句に青年衆が集まり、関本氏所有の大凧あげが催された。
 凧あげが終わると、牧場内の大欅の下に集まり、半玉を含めた芸者を迎えて大宴会が催された。
その宴会には太鼓を打ち鳴らして、賑やかに宵をすごした。
 太鼓叩きについては、関本源蔵氏が入野に居住当時から覚えていたので、関本氏は時々、青年衆 を牧場の広場に集めて太鼓叩きを教え込んでいた。
 この太鼓叩きが各地域のい祭りに祭囃しとして広がったもので、これが秦野太鼓の元祖である。
関本氏は太鼓に合わせて、笛も覚えていたので、笛吹も教え込み、最初は太鼓に合わせて、笛を 吹いていたが、後継者が絶えてなくなったということである。

古峯神社と寿徳寺百番観音堂
新田町長寿会 高橋小満江

(1)古峯神社
 大秦町三-十一にある古峯神社は、今から五十年程前、尾尻地区では、昭和十五年に 高橋卯七、高橋右八、高橋友吉さん方が火災にあい、翌十六年にも守屋さんの近所が火災になった ので、梅原家の敷地内に、お稲荷さんの社だたのが、当時何も祀ってなかったので戴いて、栃木県 の火伏の神様、古峯神社の御神体を勧請し、そこにお祀りをしました。それ以来、火事はなくなったとの ことです。
 このお社は、梅原家全盛の時、お建てになって、彫刻などがしてあり、小さいけれどもなかなか立派 です。 毎年十月一日にお祭りをしています。
 (2)寿徳寺百番観音堂
 当山観音堂は、元栄螺堂と称し、寛永十二年九月、当壇頭、梅原家三代目、月太郎兵衛が 尾尻六番地三号(現在のイトーヨーカドー敷地の南側)に建立されたものです。
 現在の観音堂は三回目の建立(昭和四十六年五月)で今日に至っております。
 当観世音は百番観音と称し、相模西国三十三番、板東三十三番、秩父三十四番を一堂に請じてあ ります。 安産の守り、子育観音として御利益があらたかで、近郷近在はもとより遠方の善男善女の 信仰も集めております。

消え去った的山
大竹老人クラブ 高橋利介西

現在、南ヶ丘団地の建ち並んでいるあたりにあった的山は、広大な山続きで、六十町歩外、立野等 合計七十五町歩もあり、その昔、狩人の的場に使用した伝説があり、明治時代には鳥獣も多数、生息 していて、狩人も多く出入りしていた模様です。
 或る時、西大竹の狩人広吉様は、猪と見違えて、うったところ宗五郎様をうってしまい、幸い軽傷で 済んだということもあったそうです
 昭和初期にも、鳥獣も多数生息して居り、私は昭和二年に独逸ダイアナ製大型強力の空気銃を 買って、この的山へ出かけ、半年程で様々山鳩、子兎迄うっt事も忘れられない。
 昭和四十七年より、七十五町歩の内二十四町歩は公園団地となり、的山はすっかり衣替えして姿を 消してしまった。

大八車を背負った坂道
平沢第一老人クラブ 加藤高次郎

僕の家の横の坂道は、十年程前からバスが通っているが、今から丁度六十年程前迄は、農家の人 は上りには大八車を背負い、帰りには、畑や山でとれた農産物(大小麦・野菜・薪炭)等を運んで生活 をたてていた人が可成多かった。
 この急な道路が秦野-中井線である。大雨でも降れば忽ち部落総出で、水の押し寄せるのを防ぐ のに大騒ぎ、又、後始末も大変である。どうしたらよいか心ある人は苦労はすれどなかなか名案が無い。
 当時、坂下に青木春吉さんと言う私より十六・七上の笠屋さんがあり、弟子も何人か使っていた。
 この青木さんが僕の所へ来て、「オイ加藤、この道を何とか改修しようではないか。」寝耳に水の様な 話しであったが、そう簡単には行かない。そこで先ず二人で県議の田中八郎宅(平塚市長持)に行き、 事情を詳細に説明した。暫く考えていられたが、「仲々容易ではないがやりましょう。」との返事。帰って早速部落の有志宅を訪問、田中氏の返事を中心に部落総員の集会を開き、この事業遂行上の役職も 決めて愈々発足した。
 部落の役員も加藤繁蔵氏、露木繁蔵氏、其の他百名以上あり、経費も七千円以上(只今の何億位?) かけ、改修は完成した。また横須賀の小泉又次郎先生(只今の小泉純一郎代議士の祖父)には 随分ご厄介になった事は忘れない。

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