秦野南地区・語り部運動資料

湯掛けの行事
中町長寿会 小泉初男

昔、疱瘡で子供が高熱を出した時には、桟俵に赤飯を盛り赤い紙の旗を立てて、疱瘡神を祭り、此の桟俵を熱を出した子供の頭に乗せ、笹で湯を二度三度掛けて疱瘡熱の下がる事を祈願した。
 又、この桟俵を道の辻に置いて来て、帰りには後を振り向かないで帰る様に言われた。

私の家の七草粥
中町長寿会 森 富子

お正月の七草粥は、春の七草、せり・なずな・ごぎょう・はこべ・すずな・すずしろ・ほとけのざを近くの さわじりで、一月五日につみとって揃えておく。
 一月六日の夕方と七日の朝、神棚の下にござをしき木鉢の上にまな板をのせて、つみとった七草を 木のしゃもじ・お玉を両手に持って「七草なづな日本の鳥と唐土の鳥と渡らぬ先にあわせてバタバタ」と 、となえながらたたき、これを塩味のお粥とまぜ、さらに神様にお供えしておいた餅を入れて七草粥を 作り、七日の朝神佛に供える。

駒形宮のこと
西上町老人クラブ 綾部顕治

今泉西町室川に架かる白笹橋の袂に西町会館がある。その左奥の間に駒形宮があり、本尊が祀られているが、ふだんは唐紙が閉まっているので、拝めません。毎年二回、戸を開けて、馬のご本尊に 白笹稲荷神社の宮司さんに祝詞をを奉納して戴いている。毎年、春は三月十九日、秋は、九月十九日 が祭典です。前には子供をat留目、よく菓子袋を配ったこともあった。
 駒形宮は以前、川向かいの栗原辰雄さんの屋敷にあったそうですが、明治三十年、相州大住郡今泉村となった頃、庄屋の清水蒔三郎さんの屋敷の川端である現在地に移された。
 今から七百年前の事4,鎌倉時代、頼朝公が富士の巻狩の帰り道、大住郡の方に廻って来られた時、前の駐在所辺にさしかかる頃、白馬が元気なく歩くのがだんだん遅くなり、膝を折って座ってしまった。おいしい草を与えても食べようともせず、馬方が一生懸命介抱したが、惜しくも死んでしまった。
頼朝始め家来も悲しみ、寺の坊様にお経を上げてもらい、畑へねんごろに葬った。
 その後、百姓の家には、馬が方々に飼われていたので、木彫りの白馬を造って駒形宮にお祀りした という。

諏訪町の水神様
諏訪町長寿会 飯田右八

諏訪町の真中を上方町に流れている小川があり、一番上に水神様の小さな石宮があります。
この 建立年月日は消えており、今泉村氏子の文字だけがわかっている。この川の水は、現在、田の用水 として使用されているが、昔は住民にとっても最も大切な生活用水で、飲料水から風呂水まですべてに使われていた。
 前の家の故飯田七右衛門様(昭和十五年、九十三才没)の話しによると、七右衛門様が七才の頃、 若い人がコロリという病気で大勢亡くなった。昔ながらの川の水が原因であると気付き、水神様をまつり、それからは五月節句の日には川の清掃を村全員の人達で行い、水神様のお祭りを行った。
私の子供の頃は色々と催し事もあったが、現在は、祭典のみ行われている。

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